そろそろ初夏という呼び方ともおさらば、本格的な夏が来ようかという頃合いのヨコハマ。
潮風もその香をほのかながらも濃くしており、
人によっちゃあ 鉄さびや血の香りとも解釈できるそれを忌々しいと感じるらしいが、
そんなふやけたことを言っていては生き残れないよな、物騒極まりない毎日を過ごす顔ぶれもいて。
新緑が織りなす瑞々しい木洩れ日の躍る大窓を据えた広間にて、
睦まじくも仲の良い顔ぶれで午後のティータイムと運んでいた一同がある。
品のいい調度を並べた室内には、会話の邪魔にはならぬボリュームで弦楽曲が流されており、
それぞれに立て続いていた仕事の合間、稀なことに空き時間が重なったのでと、
気の合う面々が久々に顔を揃え、上質の紅茶や珈琲をそれぞれに堪能しつつ、
忙しかった間の各々の見聞きしたこぼれ話などを披露していたのだが、
「でもさすがにあの時はびっくりしましたよ。
いきなり肘からダンって腕を落とされて。
超再生が働くとはいえ、目が眩むほど痛かったですし、
虎になって意識が保てるか、後から思えばそこも怖かったですけれど。」
いやぁ、参ったなあなんて口調で言うものだから、
うっかりと『階段の段差で躓いた』程度の受け取りようをしかかった面子が
ちょっと待てと我に返って口にしたご当人のお顔を二度見する。
「…なんじゃと?」
「敦、それは本当の話か?」
「ホントよ、アタシも目がくらみそうになったもの。余りの理不尽に腹が立ってしまって。」
「しばらくほどエリス嬢が出て来られませんでしたものね。」
ね〜と、ちょっとしたアクシデントや拗ねちゃったことのように
お顔を見合わせて朗らかに小首をかしげ合う可愛いどころの二人だが、
内容が内容なだけにギョッとした周囲の視線は一気に尖り、そのままコトの主導だろう人物へと集中し、
「いやあの、あれはさぁ。」
愛らしく従順なところを気にいったと、
取引の条件としてあの子をくれないかと執拗に言ってくるような馬鹿者がたまに居て。
先だっても酒宴でイヤに絡む商談相手がいたので、
この子はおっかない子ですよと、とはいえ私には絶対服従しておりますがと、
そこらを誇示するのに手っ取り早く虎を呼び出そうとした。
小山ほどもあろうかという虎に転変するよな異能は御せないと、
真っ青になって契約書だけおいて帰ってったがね。
そんな風に話していた騒動の実態がそんなとんでもない事態だっただなんてと、
自身に都合の悪いところは緘口令を敷いてたらしい首領殿も首領殿だが、
「え? 皆さんにも似たような経緯はあったのでは?
酒の席の余興だとか仰せだったんですが。」
痛い想いをしたれども、
自分にはその場で損なわれた部位が復活するほどの再生能力があるのだしと、
もう済んだこと扱いになっているご本人のしれッとした言いようへ、
「そのようなたわけた余興があるかっ!!」
和装の女傑幹部殿が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって大きに息巻く。
よく言って絶大なカリスマ性にて癖だらけの部下らをぎゅうぎゅうとまとめ上げたが、
老いを重ねるのにつれてどんどんと傲岸さだけに拍車がかかり、
狂ったように殲滅を繰り返し、ヨコハマを焼け野原にしたいのかと誰もがおののいた
生涯にわたって独善を極めた先代に比すれば、
今現在の首領様は、情愛を大事にしていいとする、
平和な時代にもようようそぐう、懐の広い惣領様ではあるものの、
『だがだが、そういうところもね、』
それを握ってがんじがらめにするような、
下衆な大人も往々にしているからねと太宰さんが言ってられたので、
「なので、親方からの通達は基本何でも聞かねばならないけれど、
忠心の致すところとして聞いたその後で、皆さまに判定してもらうのも忘れずにねと。」
「…敦くん。」
「というか、あんの糞サバ、とんでもねぇ置き土産していきやがって〜っ。」
無体は無体で、ちょっとやりすぎてしまったことへの怒りはあったれど、
その前に…いくら首領からの指示でも断れなんだのかとか、
紅葉さん辺りへ助けを求めりゃそこまではしなかったんじゃあとか、
よく言って応用力のある、悪く言って太宰譲りで頭の回転も早い子なのに、と思えば、
此処まで含んで彼なりの意趣返しだったらしいとやっと察しがついた、元双黒の誰か様が、
それでも、敦には罪がないとし、
あの糞野郎と重ね重ね 元相棒を呪った一幕だったらしい。
◇◇
その昔、港町という土地柄から 海外の勢力がどっと流入した混乱期というのがあって、
治外法権をかざしてのやりたい放題をした挙句、
それへと対抗せんとした自治組織も乱立し、様々に錯綜した結果、
ヨコハマは権利関係において他に類を見ないほどの荒れた土地と化した。
殊に、お上の処断を待ってなどいられぬと
地域地域の顔役を担ぎ出して自警組織を構築したところも少なくはなかったため、
他所では公安委員会が構成する警察機構で十分間に合っている治安維持も、
この地では何の役にも立たぬと相手にされず、やや蔑視を込めての“屯所”扱い。
とはいえ、何もかもをこの土地独自の方式で敢行するわけにもいかないのでと、
軍的な威力、すなわち武装と強制力をもって強化された“軍警”という実務組織が統制役を担い、
それでやっとのこと、法でも市民の権利を守る道筋が再構築されつつある現状で。
そんなこんなで、日本であって日本じゃあないよな
魔都との異名まで持つのが現今のヨコハマであり
異能者を多く抱えたポートマフィアが夜のヨコハマの秩序を律する存在だとすれば、
昼間のヨコハマは当然のことながら公的機関である市警や軍警が守っているが。
それらが法があるがため強引には手を出せぬとする輩や事案へは、
昼の世界と夜の世界の間を取り仕切る薄暮の武装集団とされている“武装探偵社”が罷り越す。
裏社会の雄であるポートマフィアに対抗してのこと、非合法な強引を押し通す “汚れ屋”というわけじゃあなくて、
内務省異能特務課と同様、
日之本では いまだ公的には認可されていない“異能”による騒動や事件を処理することへと特化し、
それをこなせる組織であるが故の、極秘公認 “異能開業許可証”を取得している存在で。
公認されてはないのに許可証?と
理屈の順番に違和感を感じる諸兄もおいでかも知れないが、
モノによっては危険極まりない“異能”由来の案件へは、
治安維持や取り締まりへの指示を出す本来の機関である司法省も
無いものには触れられないがため、対処や指示を出すのに必要な、所謂“令状”が出せぬ。
例えば、刃を生み出す異能が相手であれ、出動止まりで重火器などの帯同は以ての外となってしまう。
それへ代わって対処せねばならぬ存在であることへの“認可”であり。
なので、銃刀等取り扱いやら通信手段への許容などなど、1つことへいちいち許可を取り付ける格好ながら、
それでも破格かつ迅速に超法規的な行動を認可される特権を得られる許可証というところかと。
『まあ、公には出来ないという点は変わらないわけだから、
辻褄合わせって恰好の後始末には、
異能特務課が胃や神経をすり減らして対処しているそうだけど。』
そんな探偵社に新顔が加わったのが数日ほど前の話。
年の頃は10代後半に見えなくもないが、実はギリギリで成年だそうで、
頬骨も立たぬすべらかな頬に黒みの強い双眸、
腕脚も胴回りも少女のようなか細いまでの痩躯をしていて、
愛想がないことを除けてもさして危険そうには見えぬ人物だが、
荒事専任と噂される武装探偵社に迎えられたのにはそれなりの理由があり。
都市伝説と言われつつ
それでもじわじわとその存在が人々の耳目に触れつつある“異能”を
それは手際よく畳んでしまうがため、いまだもって伝説止まりにしている皮肉な組織
そんな事務所であるがゆえ、
調査員には 対異能戦略として異能者を取り揃えている。
出来れば穏便に方を付けるのが重畳なので、
攻撃向きの火器系よりも隠密行動や飛び道具タイプが多い手勢であり、
神がかりな推理力を持つ名探偵の存在により何につけ先手を打てることから
今のところはそれで何とかなっているものの、
近年、外国勢力がなりふり構わぬ攻勢を仕掛けて来てもいるがため、
強靱強力な戦闘力を持つ存在へは何時だってウエルカムな下敷きがなかったわけでもない。
某自衛隊じゃああるまいし鉦を叩いて募集とまでは出来ないところへ
微妙な縁があって採用とされたその青年は、
まだまだ粗削りながらも随分と強力な戦闘型の異能を持っており。
身にまとう衣類を不定形な黒獣へと転変させ、
何でも食らう顎や疾風のように宙を掛ける刃として自在に操れる、
その名も “羅生門”。
『結構 名を売ってた成長株だったらしいね。』
港湾近くの貧民街にて、
妹と二人、その日その日をつなぐように暮らしていた浮浪児だったが、
降りかかる危機へと異能で切り抜けて来たことが積み重なってのことだろか、
とうとう何も起こしてはない日常でも 破落戸たちだろう追手がかかるようになった。
そこでとやや租界からはみ出して、市街地近く、鶴見川の河原に居たところ、
入水敢行の末に流れてきた太宰を見かねて助けたことが縁で、
武装探偵社にその身を預けることとなったという流れ。
追手が出来たことへの過敏な反応か、
まだ少々自分の異能を制御しきれていないようだったが、
人助けに異能を使い、自身の身を盾にした行為をしたことで
入社試験に合格したので社長の異能の庇護下に入り、
少なくとも暴走することだけは抑制できる身となった。
『何となれば、
そこの唐変木が “異能無効化”というチ―トな異能を操る奴だから頼りにするといい。』
『国木田くん、言い方。』
とりあえず、彼らを引き入れた責任者ということで教育係となったという先輩は、だが、
それは麗しい風貌をし、身ごなしにも品があってのなかなかのイケメンではあったれど、
知性派らしいものの前職も謎だそうだし、
隙あらばサボるところを生真面目な国木田から始終怒鳴られている問題人物でもあるらしく。
「仕事はおいおい、そうだな、
しばらくは誰ぞの補佐をする恰好で見聞きして覚えてゆくといい。」
時々ふらりと姿を消すことも多々ある人物なので、常時 傍にいてくれるというわけにもいかぬ。
なので、彼と限らずの補佐をしておれとの指示がなされた。
社員寮の一室を妹との住居としてあてがわれ、
摺鉢街の狂犬から脱し、何とか落ち着いた生活を始めたばかりの彼だったれど、
そんな中へと舞い込んだのがとある依頼。
貿易商の事務所を構えている女性が、
その事務所近辺の裏路地に不審者を頻繁に見かけるようになったという。
警察に相談しても、具体的な事件が起きたわけでなし、忙しいのか真摯には取り合ってもらえず、
そこでと頼らせていただいたとのこと。
国木田曰く、恐らくは密輸を担う小悪党らで、
人目の付かない裏路地などを取り引きの場としており、
公安系の手が入れば蜘蛛の子を散らすように逃げるだけの連中だが、
根城にされたのではたまらないというのも判る。
証拠となろう写真でも撮って、被害届を出す格好で警邏を密にしてもらうといいと、
とりあえずの段取りが組まれ、
「貴様も行くといい。」
まだ書類整理などにしか手を付けてはなかった芥川へも、
様子見に向かう谷崎と共に現場へ付いてゆけとのお声がかかった。
早速の初仕事として、証拠写真を納めるカメラなど準備しておれば
「擂鉢街に居たというのなら わざわざ助言せずとも悉知のことだろうが、」
ただのチンピラや破落戸ならいざ知らず、
異能を持つ厄介な手合いもいるのでそいつらには気を付けろと、
国木田が手渡したのが、情報屋経由で軍警が入手したという一枚の写真。
そこには顎先まで覆うような、ぶかぶかだがハイネックの周辺にボアを重ねた、
結構な重装備の外套を着た青年が、
ひょいと路地裏から出てきたような間合いを切り取られて写っており。
頭がいやに明るい色合いだが、全体的に雑な写真なので光の加減でそう見えているだけなのかもしれぬ。
「此奴は?」
何者ですかとの手短な問いへは、太宰が小さく笑って応じる。曰く、
「ポートマフィアだよ。」
「……っ。」
国木田の指摘したように名前だけなら知っているし、
何をどう間違えてもその縄張りや構成員の行動を冒してはならぬと
ともすれば官憲系の取り締まり以上に恐れられていた存在であり。
それを思い出してのことだろう、表情を引き締めた芥川だったものの、
「まあまあ、そんなに堅くならず。」
共に行って手際を見ておけと指名された当のご本人、
手代の谷崎が朗らかに笑っておいでおいでと出かけるお誘いをして見せる。
「その写真に写っているのは最近現場に出て来るようになった若いので、
まだどの格なのかも判ってはないけれど、大きな取引や爆破騒ぎの前後に目撃されているんだそうだよ。」
もしかして故意に姿を見せているのかも知れないねとは太宰さんの言いようだったけれど、
こんなにも若い、どうかすると僕らくらいの年頃で大元の組織に属しているらしいなんて言われているってことは、
「異能を持っているのかも知れないから気を付けてねって言いたかったんだよ、国木田さん。」
途中から太宰さんに話をひったくられていたけれどと、
いつもの脱線さぁと笑った先輩さんと共に
やや古びたビルヂングの4階からエレベータで一気に降りての外へと出れば、
先んじて出ていたらしいセーラー服姿のナオミ嬢が待ち受けており、
つややかな黒髪を揺らして笑顔を見せる。
「兄さま、芥川さんも、こちらだそうですよ?」
現場までの順路を教わっておいたらしく、
傍らに立っていた依頼人の金髪の女性がぺこりと頭を下げるのへこちらからも会釈を返し。
ではと、徒歩で充分だという距離を伸すこととする。
ナオミ嬢は谷崎の妹御で、まだ高校生だが探偵社では事務員のアルバイトもこなしていて、
依頼への手順などは一応通じているとのこと。
なのでと付いて来たらしかったが、
「あの、ナオミさん。」
「はい?」
こそりと声をかけて来た芥川だったのへ、他愛なくも振り返ってきた屈託のないお顔へ、
あまり表情の動かぬ青年が…それでも視線を落ち着きなく泳がせながら、
つまりは随分と照れまくっての心情そのままにしつつ、がばりと頭を下げて見せ。
「銀が炊飯器やコンロの使い方を教わったそうで。ありがとうございます。」
何時言おうかと結構間を読んでいたらしく、
するりと言ってのけたそのまま小さく息をついたのが、慣れないことなのを感じさせ。
それでも律儀に礼を尽くそうとする姿勢に、先達である兄もその妹も微笑ましいとの笑顔を見せる。
「お礼なんて要りませんことよ?
銀さんはお兄様に美味しいご飯を食べさせたいって仰ってましたの。
兄を大事に思う気持は わたくしもようよう判りますもの。」
それにとっても飲み込みのいい方で、煮物への火加減や何やもあっさり覚えてしまわれて。
そんな風に褒めれば、自分が褒められたように真っ赤になったところが意外と純朴。
そうか、冷然としていて取っつきにくく思えたけれど、あまり人と接したことがないだけかなんて、
納得し直しておれば、先導していた依頼主の女性が立ち止まり、
通りから逸れる格好の辻を指先を揃えた手で示して見せた。
「この奥になります。」
淡々と告げるのへ従って、示された路地へと入ってみるが、
やや奥行きのあるその路地は、両側の建物の何処とも戸口や入り口を接してはおらず、
しかもまっすぐ行くと別の建物が行く手を阻む格好になっており、長い目の広場のような雰囲気。
建物の分厚さのせいで通りの喧騒も届かぬが、
ということは此処での声や騒ぎも外へは届かないということになろう。
人通りがないどころじゃあなく、これでは
「おかしいですね。えっと、」
相手の名を忘れ、失礼ながらと言いよどめば、
「ヒグチです。」
そうとあらためて名乗った彼女へ、谷崎が質問をする。
「国木田さんも言ってましたが、
密輸組織のしかも小さい規模の輩というのは臆病なので、
何かしら不具合や不手際が発生したらとりあえず逃げるのが原則と思っていい連中です。
なのですが、この路地は行き止まりになっていますから、そちらを封鎖されたら逃げようがない。」
入ってきた側、今はちょうどヒグチ嬢が立っている方を視線で示した谷崎へ、
それは楚々とした態度で通していた彼女は、ええと頷くと、
「あなた方を嵌めさせてもらいました。」
そうと言い、降ろしていた髪を両手で掻き上げてシニヨンにし、
きっちりと留めていたブラウスのボタンを2つほど外して動きやすい恰好へ。
そしてそして、スーツのポケットから取り出した携帯電話をパクリと開くと、
「中島先輩、手筈通り運びました。」
きりりと冴えた口調でそうと告げ、
何言かのやり取りの後、電話と入れ替えるように手にしたのが物陰に隠しておいたらしい大きめの鞄。
そこから取り出されたのは何と、かなり大きめのサブマシンガン、機関銃ではないか。
とんでもない話の成り行きにギョッとしている3人を銃口で差すようにし、
「そちらのあなた。芥川龍之介さんですね。こちらへ。」
そのように指示を出す。
余りの展開にギョッとしたか立ちすくんでおれば、
「言う通りにしなさい。でないとそちらのお仲間を撃ちます。
あなたのせいで怪我をさせたくはないでしょう?」
「…っ!」
まだ誰へも手を掛けられたわけではないながら、
こちらは丸腰、これはもう十分に人質をとられたも同然という態勢だということか。
そんな現状なのだという理屈がやっと追いつき、
確かに、世話を掛けている先輩やその妹さんを傷つけるわけにはいかんと、
入社祝いだと贈ってもらったばかりな革の靴、細かな砂利を噛んでざりと鳴らしつつ、
言われたとおりに歩を進めんとしかかれば、
「ダメだ、行っちゃあいけないよっ。」
後輩を危険な目に合わせるわけにはいかんと、それこそ先輩社員としての矜持が動いたらしく。
踏み出しかかる芥川の砂色の外套越し、まだまだ細っこい腕を掴んで引き留める。
そんな状況に業を煮やしたか、
「往生際が悪いですよ。」
すぐにも運ぶと言われているのだろう、連絡していた先輩とやらに上々の戦果を見せたいものか
気を逸らせたヒグチ嬢が弾かれたように引き金に手を掛けたらしく。
威嚇のつもりもあってか短い掃射ではあったが、
数えるのも間に合わなんだほどの数だけ “タタタタタンッ”と物騒な銃声が鳴り響いた。
こんなものに慣れようがない、
身をすくませる弾幕の音が鳴り響き、路地裏一帯を塗りつぶす。
次の瞬間には途轍もない激痛が襲うのだろとの恐怖に総身が凍り付いてしまい、身動きなどとれるはずもなく。だが、
「…あれ?」
やはり不意に銃声が鳴りやんで、ついのこととてギュウと瞑っていた眼を開ければ、
硝煙の香が満ちた空間には逆の静けさばかりが垂れ込めており。
腕を引いて芥川を背後へ庇った谷崎の前には、
思いもかけぬ光景、か細い少女の肢体が立ちふさがっていたため、まずはギョッとした彼だったが、
「ナオミ?」
「…あ、兄様?」
彼女自身も相当に覚悟はしていたらしく、ぎゅうと瞑っていた眼をやっと解いたようであり。
だが、ハッと弾かれたように振り返る彼女の身もまた、傷一つないらしい無事なまま。そして、
「ダメですよ、生け捕りとの指令ですのに乱れ撃ちなんてしちゃあ。」
「先輩。」
探偵社の人々を守る盾のように。彼らの更に前へと立ち塞がっている存在がある。
銀色に近い白髪をしているが、声の伸びやかさや やや弓なりに構えた背条から、
さして逞しくもない体躯の若々しい青年であるらしく。
だがだが、機関銃を撃ち放った彼女へと伸ばされていた腕の先、
指先のないドライバーグローブのような手套をはめたその手から ばらばらと足元へ落ちるのは随分な量の弾丸たち。
全部受けたのではないらしく、黒いジャケットの袖はあちこちやや焦げており、弾き飛ばしたものも多数あったに違いない。
明らかに知己であるらしく、突然の急襲を仕掛けたヒグチ嬢は慌てたように抗弁をしかかったが、
「対象者だけでいい? そんな訳にはいきませんて。
手ごわい組織に要らぬ貸しを作ってどうしますか。」
丁寧な口調で手引きをした女性を言い諭す彼に、
え?仲間割れ?と探偵社側の3人は同様に思ったものの、
その風貌を見ていて芥川がハッとする。
先程 国木田に見せられた写真を思い出したからで、
「写真の…。」
「え? あ、そういえば。」
後輩からの短い一言で示唆に気付いた谷崎も、ギョッとしてナオミを引き寄せ自分の背に回す。
幼い風貌にそぐう 妙に折り目正しい口利きをする青年だが、
この彼こそは軍警から回って来たという手配の写真にあった、
最近ここいらに顔を出しているポートマフィアの面子だという青年ではないか。
「ボクは中島敦。御覧の通りの若輩者で、ポートマフィアの末席におります。」
そんなごそごそが届いたか、向こうでもこちらへ肩越しに振り返ると、
まだあどけないといっても通用しそうな面差しを綻ばせ、そんな風に声をかけてくる。
先程 樋口嬢が口にした“中島先輩”というのがこの彼なのだろう。
まるで高校生がアルバイト先の面接に来てでもいるかのような、
いやいやそれにしては緊張もなくのそれは穏やかな口調にて滔々と語る青年で。
初夏めいたこの季節には暑くないのだろうかというような、
襟元を覆うようなボア付きのハイネックの外套姿、しかも全身黒づくめだというに、
不思議と揮発性の高い威容や得体のしれない不気味さなどは感じない。
「おっかない想いをさせてしまいましたね。特にそちらのお嬢さんは非戦闘員の方なのでしょう?」
そうと口にしつつ眉を下げて見せた彼は、だが、
「我々が用向きのあるのはそちらの芥川さんにだけです。」
そうと言ったため、うっかり聞き流しかかった谷崎がハッとして
あらためて両腕を開くと、背後にかくまった二人をますますと庇う格好になる。
はいそうですかと、差し出すわけにはいかぬというもので、だがそれは相手にも同じであったらしく、
「判っていただきたい。ボクらは事を荒立てたくはないのです。
機関銃は大仰でした謝ります、社員ではない方にまでむやみに怪我をさせたくはない。
ですが、その彼を連れてくのもまた拝命した任務です。
ここは大人しく付いて来てくれませんかね。
そちらのあなた、先輩としてそうはいかぬというのなら、
そうだ、何だったら大急ぎで応援を呼んでも構いませんよ?」
口数が多いなと、そこがだんだんと胡散臭く感じられるようになってきた。
穏やかなのではなく、言いくるめるタイプなのかも知れぬ。
術中にハマるのは危険だと判っているのだが、
「此処から立ち去ってお仲間を呼ぶなりなさるといい。
後輩をおいては行けない? ああでも、携帯電話は使えませんのであしからず。」
そうと言って短波通信機を取り出して見せる。
そおと自分の携帯を取り出して開くと液晶画面には圏外の表示が出ており、
何やら特殊で強力な妨害電波でも発信しているのだろう。
「くっ。」
穏便と構えている青年だが、忘れてはいけない、あの機銃掃射を素手で留めて防いだ存在なのだ。
どのような異能かは知らないが、文字通りの片手間に弾丸に耐えうる強靱な身であることは間違いないし、
こうしている間にも相手側の応援が駆け付けないとも限らない。
「…っ、ナオミっ、探偵社まで急いで戻っておくれ。」
「兄様っ。」
「早くっ。」
こうなったらという破れかぶれ。
非戦闘員には手出ししないと言ったところを信じて、妹だけでもこの場から引き離す。
独りにするのもそれはそれで危険かもしれないが、なんの路地から出さえすれば生活道路の中通りだ、
人目もたんとあったので無体はしけまいし、ここいらにはよく出歩くので彼女を見てああ探偵社のと気づく人も多かろう。
「彼を置き去るわけにも引き渡すわけにもいかないよ。」
兄の意図するところを酌んだか、躊躇ったあと駆け出す足音を聞きながら、
そうと告げるとカッと双眸を刮目する。
その途端、路地の空間へと降りそそぐものがあり、
ふわふわと音もなく降りてくるそれは、
「こんな季節なのに雪?」
降りしきるという描写がぴったりの、鮮やかな雪片が次から次に降りそそぎ、
気が付けば周辺の背景が輪郭を曖昧にしている。
セーラー服の少女が駆け出すと同時のこの現象に気をとられたものの、
「…っ、まさか。」
ハッとしたヒグチ嬢が、素早く持ち上げて谷崎へと向けた機関銃を掃射したが、
当たったはずの彼の姿は綿雲が千切られてゆくようにもやもやと砕けて消えてしまった。
「異能…。」
「そのようですね。」
幻影のスクリーンを張り巡らせて姿を消し、攻撃から逃れるなり潜入するなりに特化した異能。
しかも、
「彼もですが、連れの青年の気配もしないのが物凄い。」
クンと、やや斜め上へ鼻先を立てて何かを嗅ぐような所作を取った敦青年がそうと言い、
そっと伏せられた瞼の下、
“あの人も通信断絶を合図に向かって来るのだろうなぁ。”
そのくらいは想定内だと、胸の内にてそんな風に独りごちた彼でもあった。
to be continued.(20.06.28.〜)
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*芥川さんにつれない態度の樋口さんを書く日がこようとは…っというところで
先だっての小話の続きです。
太宰さんが育てたという前提なせいか、書けば書くほど敦くんが別人に。(笑)
原作をそのまま、配役を置き換えてなぞっただけなところは
ついついザッとした書きようになってます、すいません。
あくまでも敦くんを主軸にして書き始めたせいか、
探偵社の芥川くんというのが今一つ実感が沸かず、
よくよく煮詰めてないままなので描写の仕様がなく、
何だか名前だけの存在になってて口惜しいです。
原作のあの劇的な場面、
もうちょっとだけ続きますので、よろしかったらお付き合いのほどを。

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